ベーカリーアドバイザーの部屋

難解な製パン理論を、楽しく解説。 どうして??と思ったらのぞいてみて下さい

「QOL」の大切さを実感できました・・・・・

先日、幼少のころからずっとお世話になっていた、とても大好きであった伯父が亡くなりました。

肺がんでありました。

90代なかばまで生きた伯父でありましたが、とにかくお酒の好きな人で、よく一緒に飲み明かしたものでした。

がんの宣告を受けたのが80代の時でしたので、高齢であるということもあり、家族は本人には知らせずに無治療の道を選択しました。

私個人は知らせるべきだという思いがありましたが、多くの子供達と孫に恵まれて大家族で暮らす伯父の、その家族が決めたことなら仕方がないと思っていました。

唯一良かったと思えたのは、治療はせずに放置する道を選んだということでした。

いかなる年齢であれ、家族に愛されていればいるほど延命を望まれてしまうのが現在の一般常識だと思うのです。

本人も、自身ががんであるということを告知されていたとしたら、戦う意志を持ってしまったかもしれません。

しかし生前からとにかく家にいることが好きで、そして家族と過ごすことをとても大切にしてきた伯父でしたので、家族もよほどのことがない限りは病院へは行かずに、家で様子を見るという道を選んだのだと思います。

おかげで伯父は宣告から約8年以上も元気な体で過ごすことができました。

そして何よりも、家族に見守られながら安らかに眠りについたのでした。

伯父は肺がんの宣告を受けた時点ですでに末期でした。

余命も告げられていたそうです。

だからこそ無治療を家族は選んだのかもしれませんし、もしも早期であったとしたら戦ってしまった、つまり手術や抗癌剤治療を選択していたかもしれないのです。

もし戦っていたとしたら、それはそれは悲惨な死を遂げていたことでしょうし、90歳半ばまで生きることは到底できなかったことでしょう。

こう書いてしまうと、まるで治療をすることは悪いことであるかのように聞こえることでしょう。

がんはとにかく早期発見、そして負けてはいけない、戦わなくてはいけない、家族のためにも自分自身のためにも・・・・・

皆さんはそれが今の常識だと思われているはずですし、世の中は益々病気とは戦うべきであるという風潮になってきています。

「早く見つけて治療を行えば、多くのがんは確実に完治できる時代である・・・・・」

「医療の現場はそのように日々進歩し続けているのである・・・・・・」

果たして本当にそうなのでしょうか?

大好きであった伯父の死を追悼する意味も含めて、伯父のがん患者としての数年間を振り返りながら、がんと戦うことが果たしてほんとうに正しいことなのか、治療をしないことは本当に家族や自分の為にはならないのかを考えてみたいと思います。

「QOLクオリティー・オブ・ライフ」という言葉をご存知でしょうか。

生活の質という意味になりますが、文字通り毎日の生活が穏やかであったのか、それとも苦悩の日々であったのか、その質を問う言葉なのですが、がんの治療を考える上でこのクオリティー・オブ・ライフというのはとても重要なキーワードとなるのです。

どういうことかといいますと、がんと戦うということは無治療で様子を見るということではありませんよね。

間違いなく何がしかの治療を行い、そして完治を目的として病気に立ち向かうことを指します。

その戦いである治療の内容というのは、これまたご存知のようにがんを取り除く手術であり、がんを縮小又はやっつけるための抗癌剤治療となります。

家族はがんの進行の度合いや経過、そして治療の内容を医師から告げられて、家族のみ、あるいはご本人にも告知したうえで今後の治療方針を決定していくことになります。

その場合、もう手の施しようがないほどの末期症状でもないかぎりは、医師は現時点での最良の治療法を説明してくれるでしょうし、家族もなんとかして治すための道を探すことになるはずです。

間違ってもなにもしない、放っておくという選択肢は選ばないと思うのです。

医師の中にも、患者や家族が様子を見たいといった場合、すんなりと受け止めてくれる人はまずいないと思いますし、「手遅れになってからではお引き受け出来ませんよ」 などという医師もいることでしょう。

「がんと戦うこと」 は避けては通れない患者の宿命とも言えるのが、今の医療の現実なのです。

くしくも先日、友人である女性の旦那様ががんの手術をされたことを聞きました。

内容は肺がんでしたが、手術後の病理診断の結果良性であることがわかりました。

悪性か良性か、つまり本物のがんか偽物のがんかの見分けが難しい症例であったとのことでしたが、旦那様は自らの決断で手術を選択されたそうです。

良性か悪性かなどということよりも、がんであると医師から宣告された時のショックを考えてみてください。

「今ならまだ手術すれば取り除くことができる大きさであり、他の臓器への転移は今のところ発見できません」

「今後放置すれば大きくなって手術が出来なくなる恐れもあります」

このように言われたら、手術を回避することはもう難しいとは思いませんか。

どうかよろしくお願いします・・・・・となって当然だと思うのです。

しかし切ってみたら偽物だった・・・・

でも本物でなかったのなら本当に良かった・・・・

病理診断の難しい所見であったためにとりあえず手術で取り除き、その後に大丈夫だとお墨付きをいただけたことでご主人はホッとした・・・・・とこうなるのが今では一般的なことかもしれません。

しかし結論から言いますと、手術で体にメスを入れた人の術後の後遺症、あるいは新たながんなどへの発症頻度というのは、飛躍的に上がってしまいます。

そもそも検診でがんではないかと診断された時点から、今回の悲劇は始まっていました。

これを回避する手段があったとすれば、それは検診には行かないこと、そしてもし検診を受けてがんかもしれないと言われたとしても、しばらく様子を見るという選択肢もあるのだということを知っていて欲しいと思うのです。

今回のように医師から直接手術を勧められたら、そして手遅れになる前に的なことを言われたら、まず嫌とはいえないと思います。

それは、もし手遅れになって後で後悔しても、どうしようもないという思いがよぎるからだと思うのです。

またそのように情報が飛び交っていることも手伝って、すぐ決断をしなければという思いが支配してしまうからだと思うのです。

しかしここで考えなければならないのは、がんの正体と事実を知ることです。

もし今回の検診で見つかったがんが悪性のがんであったとしたら、その時点ですでに転移が発生しているために完治はほぼ見込めないという事実。

術前の検査で転移がみとめられなかったとすれば、それはほぼ悪性のがんではない、ただのしこりである訳で手術の必要はないという事実。

この事実を考慮すると、いずれにしても放置して様子を見るのが最良の手段であり、単なるしこりをわざわざ危険を伴う大手術で取る必要など全く無いということになるのです。

また、もし悪性のがんであったとしたら、手術でがんを取り除いたとしてもすでに転移がある訳ですから、その場しのぎでしかない事になります。

がんというのは、その本体を手術で傷つけたり取り除いたりすると、転移したがん細胞が怒って活発になるということも証明されています。

つまり、どちらにしても手術はがんの進行を更に早めてしまう行為であり、今見えるものを取り除いたからといって、全く完治には貢献できていないということなのです。

それどころか術後感染症などで死亡してしまうケースも多々有り、人体にメスを入れるという行為はそれほどまでに危険な行為なのです。

ここで話は伯父に戻りますが、そもそもなぜ伯父は末期の宣告を受けていながら8年も生きられたのでしょう。

実はこのことこそが、がんと診断されたらひとまず放置して様子を見るということの実証となるのではないかと思うのです。

がんの末期というものには誤診はありえません。

これでもかというくらい大きくなったがん細胞が、肉眼で見てもはっきりしているからです。

通常人はこのように大きく末期症状にならないようにと早期の治療を望むと思うのです。

しかし現に末期でも数年間普通に生きている人がいるのです。

これは、医療がまだ発達していなかった時代の老衰というのは、その殆どの死因ががんであった可能性があるということの裏付けでもあります。

つまり、穏やかに死んでいった人の中には、がん患者と言える人が多くいたにもかかわらず、発見されなかったためにただの老衰として扱われたということです。

これが現代では幸か不幸かすぐに発見されてしまいますので、何がしかの治療をせざるを得ないことになっている訳です。

そして何よりも注目しなければならないのが、普通に数年間生きるという”生活の質”です。

体験がなくても概ね想像がつくとは思いますが、検査や手術入院、そして手術にその後の抗癌剤治療、これらの苦しみが一体どれほどのものか・・・・・

がん治療のあと手記を出版されている方は多いのですが、その壮絶な苦しみの毎日には目を覆いたくなります。

がんと戦うということは、そういう特殊な毎日を過ごすということであり、もしその苦しみが完治に向かっていない場合には、一体何のためにそんな思いをしなければならないのか理解に苦しみます。

念のために書いておきますが、がんというのは転移が見つかった時点でほぼ完治は望めません。

ですが、転移病巣が見つかっているにもかかわらず、手術は行われています。

それは、少しでも長く生きられる可能性を模索して、これ以上大きくなって他の臓器にダメージを与えないように主病巣を取り除くことで、転移病巣が大きくなるまでは時間が稼げるかもしれない、それまでは生きられるかもしれないと考えるからでしょう。

しかし、それが完治への道ではないことは医師ならば皆知っているはずなのです。

「今が頑張りどきですよ」 とか 「みんなで一緒に戦っていきましょう」 などと先生に言われると、この先には完治が待っているものであると誤解してしまうものです。

抗癌剤もそうです。

殆どのがんに対して、ほぼ完治には貢献しないことはすべての医師が知っているのです。

一時的に縮小する、あるいは進行を遅らせる事ができるかもしれない・・・・程度でしかないことも知っています。

しかし、医師として何もしない訳にはいかない、そして何よりも家族が望んでいる、ならば今考えうる限りの治療を行うのみだ・・・となるわけです。

伯父は幸い全く症状がありませんでした。

肺がんと聞けば、さぞ苦しいのであろうと私も思っていたのですが、私が最後に逢ったのが一年前ですが、普通に大好きな歌を歌って聞かせてくれました。

息苦しいとかぜえぜえするというようなこともなく、全くいつもどおりの毎日を過ごしていたのです。

末期と診断されたことが幸いして、特にクスリを飲むこともなく、実にゆっくりとがんは大きくなっていき、最後は入院して三日目に息を引き取ったそうです。

その際も特に苦しむことなく穏やかに逝ったそうです。

この事実だけをみても、果たしてむやみにがんと戦うことが本当に幸せへの道なのか、考えさせられてしまうでしょう。

北斗晶さんのがん告知以来、あらためて検診を受ける人が増えていると聞きます。

そうでなくてもマンモグラフィーによる乳がんの検診はピンクリボン運動のおかげで多くの女性がうけているはずです。

そのおかげと言ってはなんですが、乳がん患者が激増しています。

ただ恐ろしいのが、マンモグラフィー検査で発見される乳がんの9割は単なるしこりであるというデータが有り、中止している国もあるのです。

つまり、今この瞬間にも単なるしこりを取り除くために、大切なおっぱいを切り取られている女性がいるということなのです。

数あるがんの中でも、乳がんというのは発見が簡単で、しかも転移しずらいがんであると言われています。

それは、体から突起して離れているからなのですが、それだけに見つかりやすく、そして誤診されやすいがんでもあるのです。

とは言え、本物の乳がん患者が映画になったりドラマになったりしたら、それを見た本人はもちろん、恋人や家族はどうしたって検診を進める方向に向かうはずです。

患者本人からすれば、自分も早期発見できなかったせいでこうなってしまったと思い込まされていますし、周りもそうでしょう。

全力で早期発見を訴えることになるわけですが、それが更に被害を大きくしていくことになるなんてことは想像すらできないと思います。

私がこのようなことを書いたからといって、もとより誰も本気にはしないでしょう。

ただ、発信するのとしないのとでは大きく違うと思うのです。

自分が良ければそれでいい・・・・とはとても思えないからです。

そして、そんなことを非力ながらも発信している間に、次々とやはりそうだったという確信を得るようなお話をいただけたり、自分の周りにもそうして無意味な治療を回避できたという体験が生まれています。

戦うことと逃げること・・・・・

勝ち負けのようにも取られがちな言葉ですが、そんな時にはどうかクオリティー・オブ・ライフ(生活の質)という物差しを使ってみて欲しいと思うのです。

痛み・苦しみ・吐き気・頭痛・嫌悪感を味わいながら、ベットの上で高額な費用を払い続けることが本当に自分と家族のためなのか。

どんなに苦しくても、一日でも長く息をしていることが重要な事なのか。

それよりも自然に身を任せて、病気に抗うことなく平穏に最後まで過ごし、いよいよの時はその運命に従うのか。

多くの人が早期発見が大切で、がんとは戦うものだと認識していることと思いますが、戦うという目的の中には誤解されているがんの症状があると思うのです。

それががんによる痛みです。

のたうち回るようにして苦しむとか、苦しくて息ができないなどという思い込みがあると思うのですが、がんそのものが大きくなっても、特に痛みが出るというようなことは実はないのです。

痛みがあるというのは、がんが大きくなって器官を塞いでしまうことがあった場合に苦しくなるとか、他の臓器を圧迫して苦しくなるなどの症状は出ますが、それは薬で取れる痛みなのです。

のたうち回るようにして苦しむ痛みというのは、それは抗癌剤の後遺症や手術による感染症の痛みなのであり、要するに治療をしている人特有の痛みなのです。

つまり、がん細胞というのは徐々に大きくなって他の臓器に悪影響をおよぼす事はあっても、それ自体に痛みがあるわけではないということです。

しかし残念ながら、確実に最後には命を奪ってしまうことだけは避けようもない現実なのです。

要は、本物のがんであるとしたら、どうしたって最後には死が訪れる、しかし最後の日まで穏やかに過ごすのか、手術と抗癌剤で苦しみに耐えながらの日々を過ごすのかの違いであるということなのです。

戦い切って亡くなっていかれる人と戦わずに穏やかに亡くなっていく人・・・・・

亡くなった本人に確かめることはできませんが、家族はほんの数%でも望みがあるのであればと戦うことを選び、その家族の思いに応えるべく本人も戦うことを選んだ。

どちらが正しいのかは誰にもわかりませんが、少なくとも治療を誘導する傾向があることだけは確かです。

あんなに冷静に人が苦しむだけの治療を進めるわけはない、そう思えるのも病院という特有の世界だからなのかもしれませんね。

病院経営は事業であるということを知ってはいながらも、つい医者の言うことは絶対だと思えてしまう。

立派な病院はなぜあそこまで立派なのか??

製薬会社の恐るべき売上の規模と、抗癌剤の驚くべき売上の実態・・・・・

是非一度大いに調べ、大いに考えてみて欲しいと思います。

最後に・・・・

すこんつぁん、あなたからは随分色々なことを教わりました。

あなたを囲んだ酒宴はいつも賑やかだった。

父にとても良く似ていたあなたは、私にとって第二の父でした。

苦しまずに最後まで平凡に生きたこの世に未練はありませんか?

いつでも隣で一緒に飲んでいると思っています。

よかったらたまには姿を見せてくれてもいいですよ。

その時は親父も連れて来てくれるとうれしいな。

これからも毎晩乾杯しましょうね。

1 Comments

ニモ says..."がんだけではなく"
しずかな朝さま

外国人の夫は医者ですが(日本では臨床ができないため、日本では現在の仕事をしております)、夫は、基本的に病気は治らない、進行を遅らせるか、これ以上悪化しないようにするしかできない、だから予防が大切だと。

生活習慣病なら予防できそうですけど、がんの予防は・・・。

そして私の職場は製薬企業ですが、すべての病気がくすりで治る時代が来るように、そのために少しでも役に立ちたい!!と思いながら仕事をしています。

毎日元気に働くためには、もちろん、モリモリ食べよう焼きたてパンと手づくりケーキ!!です^^/
2015.11.21 17:24 | URL | #lRAKAG5o [edit]

Leave a reply






管理者にだけ表示を許可する

Trackbacks

trackbackURL:http://sizuasa.blog44.fc2.com/tb.php/454-273b3169
該当の記事は見つかりませんでした。